日本の廃山

日本各地の炭鉱・鉱山について記したい

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住友石炭鉱業 上歌排気竪坑の最期 (上歌志内排気竪坑櫓)   


ある日の夕刻。私の元に調査仲間のはっしー氏から速報が入った。



「上歌排気が解体されているぞ!!!」






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歌志内市に存在する上歌排気竪坑(かみうたはいきたてこう)という、元上歌志内炭鉱で使用された第一坑竪坑の竪坑櫓が解体に着手されているという一報を貰った。私は半信半疑で「それは無いだろwww」と思っては居たものの、同地区でtwitterをやっている方からも間違いなく解体が始まっているという一報と写真まで添えられてきた。正直なところ「は?マジかよ・・・?」と一言くらいは言いたかった所だが、あの竪坑櫓の価値がどれほどのものであるかを理解する私としては絶句する他なく。自らの無力さが感じさせられ、焦燥感に駆られる動悸を抑え込むのに必死であった。会社に居ても上の空な事が多く、また家では只管に上歌排気竪坑の論文を読み漁っていた。こんなことをしても既に意味が無いと分かっていながらも、最期の姿を見る前に彼の歴史を確認しておきたかったのだろう。

解体の速報が入って数日後、私は会社の公休日がたまたま当たったので撮影機材を抱え歌志内市へと向かった。家を出たのは確か真夜中だったと思う。


上歌排気竪坑の歴史を確認しておきたい。まず上歌排気竪坑が存在した上歌志内炭礦は北海道庁によって測量が行われたのが明治19年の事。その一年後に坂 市太郎(ばん いちたろう)氏によって再度測量が行われ明治28年に石狩石炭鉱業株式会社が発足し、企業着手に移るも石炭採掘量が乏しかった為に鉱区権を坂氏に返却。坂氏は大正元年に上歌志内炭礦開発事業として斜坑と竪坑の開発に着手する。第一竪坑の完成は大正3年、第二竪坑の完成は大正9年の事。その後は坂炭礦株式会社(大正6年9月)、住友炭礦株式会社(大正14年6月)、住友炭礦株式会社 上歌志内坑(昭和5年4月)、住友鉱業株式会社 炭業所歌志内礦業部(昭和12年6月)、住友鉱業株式会社 歌志内礦業所上歌志内礦(昭和16年8月)、住友鉱業株式会社 赤平礦業所歌志内礦(昭和17年 8月)、井華鉱業株式会社(昭和21年1月)、住友石炭鉱業株式会社(昭和27年7月1日)と砿業所名が改称され、赤平鉱と上歌志内鉱が合併したのが昭和28年1月の事であった。ちなみに、上歌排気竪坑が赤平一坑として統合されたのが昭和30年7月である。

竪坑だけの情報で見ていこう。

上歌志内竪坑、つまりは上歌排気竪坑は鉄骨開放R型櫓であるが。この竪坑が完成したのが大正3年と言われているものの、当初としては木製のテントR型を採用していたとも言われている。さて、この木造櫓と鉄骨櫓がいつ頃に交換されたのか、はたまた当初から鉄骨櫓だったのかは各資料によってバラバラであり。これと言った決定的な資料が挙がっていないのが事実である。しかし、大正14年頃に竪坑の形状を四角から円形へと改築工事を施していることから、この際に木造R型櫓を工事櫓(仮櫓)として処分して鉄骨櫓に切り替えたのではないかと思われる。以下、変遷である。

大正3年 第一竪坑完成(蒸気巻)
 竪坑 四角形竪坑断面(4.86m×2.70m)
 深度 海抜154m~海抜34m(深度120m)

大正14年4月 竪坑断面改築
 竪坑 四角形断面→円形断面(内径4.40m)
 築壁 煉瓦2枚半(厚さ60cm)

昭和4年 竪坑追加開鑿(ついかかいさく、追鑿【ついさく】とも言う)
 竪坑 海抜34m~海面下94m(断面に変更無し)
 深度 253m(運搬深度248m+サンプ5m)
※サンプとは竪坑穴に追加して掘られるゆとり空間である。

昭和24年9月 巻上機交換、電気巻へ
 竪坑断面 変化なし
 巻上機 四国製作所製 複胴式巻上機
 運搬設備 2段デッキ18人乗り(各段9人)

昭和32年 竪坑追鑿
 竪坑断面 変化なし(各階梯に於いてブロック構造変更あり)
 竪坑 海面下94m~海面下568m追鑿 
 深度 720m
 連接部(坑口より)
  -354m(海抜より-200m)
  -504m(海抜より-350m)
  -629m(海抜より-475m)
  -704m(海抜より-550m)



以上の通りである。
この竪坑は国内に存在する竪坑櫓の中でも珍しく、幾度となく追鑿された竪坑なのである。一言で追鑿と言っても楽なものでは無く、時には竪坑を停止させて機械を交換したり。坑底から更に別の経路を掘って竪坑を造ったりと方法は様々である。上歌排気竪坑はその多くを駆使して竪坑延命を図った竪坑櫓であり、中でも竪坑の断面を変更していることも大きな特徴と言えるだろう。国内の櫓を探した際に、ここまでゲテモノな変遷を有する竪坑はそう存在しないと言っても過言では無い。
もう一つ、この櫓には大きな特徴がある。





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上歌排気竪坑櫓


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三菱美唄 上風坑櫓


そう、謎の円柱が櫓の中に備わっているのである。これは赤平鉱の深部化の際に地下の排気が間に合わなくなるという事で、既存の入気竪坑としていた上歌竪坑を排気竪坑に改造した際に吸引力の低下を防ぐ為に造られたものである。改造は1987年と、赤平鉱が閉山する7年前の事であった。
今回はそんな追鑿の歴史と竪坑としての延命を続けた、日本でも類を見ない櫓の最期を見届ける。




私が現地に到着したのは朝8時頃。途中、あまりの眠気に耐え切れず赤平駅前で寝ていた。

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歌志内市より眺める三井砂川炭鉱のズリ山



この周辺は炭産地であり、上歌志内炭礦の他にも北炭空知や同鉱神威、三井砂川などが点在していた。中でも三井砂川中央立坑は未だにJAMICとして櫓が残り、北炭空知竪坑も現存している。




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現場に到着した私は声を失った。
何しろ、自分が大学生の頃からよく眺めていた竪坑櫓であり。その変遷と歴史を理解しているからこそ、何とも言えない気持ちになる。自分の無力さにただただ、佇むことしかできなかった。


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これらはヘッドシーブボス、つまり滑車の軸に当たる部分である。触って確かめたが、閉山して久しいと言うのにまだ稼働できるくらいには動かすことが出来た。



R型

解体方法は以上の通り、横倒しである。




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ボスと引き離されたヘッドシーブ




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動き始めた重機



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持ち上げられるヘッドシーブ



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メインロープ交換用シーブが埋もれる



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重機の爪が吟味するように眺めている


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積み込まれるバックステー


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放置されたガイド櫓の一部。監督者に聞いたところ保存では無く、全てスクラップ屋で鉄屑にするとの事で上歌排気竪坑櫓は一切の痕跡を残す事は無いとのこと。



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搬出は2016.6.21から2日かけて行われた。
これにより北海道内に存在する炭鉱用立坑櫓がまた一つ消え、現存する櫓は三菱美唄の下風坑と上風坑、住友奔別中央立坑、住友赤平第一立坑、北炭幾春別錦竪坑、三井砂川中央立坑、北炭幌内立坑、北炭空知竪坑、羽幌本坑運搬立坑、三菱美唄第三立坑(埋没中)となった。北海道の櫓は時折、数を減らし現在の数で落ち着いたが何とも言えないものである・・・。
これから先、遺産認定されていない立坑櫓が解体の道を歩むのか保存の道を歩むのかは不透明であるが、ここに嘗て北海道を代表する炭鉱が残っていたということを証明する為にも保存してほしいと思う限りである。













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立坑櫓についての分類  


鉱山や炭鉱は「斜坑(しゃこう)」による開発が基本であり、「立坑(たてこう)」による開発は後になっての事が多かった。斜坑とは地下に向かって斜めに掘られた坑道の事で、日本の場合はこれが主流であった。
立坑とは地下数百メートルと地上を連絡する「縦の穴」であり、これらを分類するとエレベーターとしての機能を有した「運搬立坑」と空気循環の為に掘られた「通気立坑」に分けられる。日本の炭鉱は1950年頃を境に立坑の建設が相次いだが、これは第二次世界大戦により行われた強制出炭によるものであり。無計画な坑道、乱掘した坑道は支保(トンネルを構成する支え)や安全炭柱(坑道と坑道の間で必要とされる安全区域)が十分に確保されていない問題。またズリによる埋め戻しが行われなかった坑道が存在する事により自然発火の可能性があった事から、それらを避けた結果、日本の炭鉱は地下化が進んでしまったという訳である。
斜坑による地下化が進むと空気循環は悪くなり、地下で発生するメタンガスや一酸化炭素の問題。人が採炭現場である「切羽(きりは)」まで向かう間の移動時間の問題などが発生し、例え8時間労働であってもそのうち3時間は移動に費やされ実働時間が延びなかったなどの問題は多々存在する。
通気立坑は専ら排気用のファンや扇風機などが装備されるが、運搬立坑は前述のように「運搬用の機械」が搭載され。これにより人員や炭車(石炭を積んで運ぶためのトロッコ)、ズリ(石炭を掘った際に出てくる不要な土砂)、機材などが運ばれる。運搬立坑に於いても前述の通気立坑にすることが可能で、排気用のファンや扇風機が搭載されない場合は基本的に入気立坑として位置づけられる。日本の運搬立坑の多くが入気立坑とされ、それとは逆の排気専用の立坑が付近や別の場所に造られる事が多かった。運搬立坑を入気立坑とするものを自然入気式と呼び、後述を強制排気式と呼ぶことが多かった。
また、「たてこう」の表記には『竪坑』と『立坑』。「まきあげ」の表記には『捲揚』と『巻上』が存在する。これは私的な分類であるが、1960年(昭和35年)の北海道三笠市に建設された住友石炭砿業 奔別中央立坑の完成を境に業界紙の表記が大きく変えられている。これは住友奔別中央立坑の会議に於いても石炭合理化政策である「スクラップアンドビルド政策」に対抗すると共に石油産業対抗用のモデルプラントとして石炭産業を立て直すという意味を込め、既存の竪坑表記を排して「立坑」表記を使用したとされている。それ以降の文面では竪坑表記は少なくなり、それ以前では竪坑表記が多く。また捲揚表記もH型竪坑の原点である三井鉱山 田川鉱業所第三坑の伊加利竪坑が1955年(昭和30年)に完成される以前に多用されることが多かった。しかしながら、これらの使い分けは各炭鉱によって異なる事もある為に必ずしもこの限りでは無い。



では、運搬立坑について述べる。
日本の鉱山に於いて運搬立坑には幾つかの種類が存在する。各鉱山や炭鉱によって使用用途や立坑の深度が異なった為に各ヤマによって基本の形状からマイナーチェンジを加える事によって潤滑化を図った結果、それらの派生が多く誕生することになったものである。しかしながら、難しいと思われる立坑櫓の分類は非常に簡単であり。巻上機がどこに据え付けられているのかでまず2つに分類することができる。

・グランドマシン
 巻上機が塔や櫓の外、地上に設置されているもの。

・タワーマシン
 巻上機が塔や櫓の内部、立坑の穴の直上にあるもの。

以上の2種類である。
巻上機にはドラム式とケーペ式の2種類が存在するが、ドラム式はロープを巻き取って使用するもの。ケーペ式は1本のロープで交互に地下と地上を結ぶものである。ドラム式は立坑深度に関係無く使用が可能であるが、ケーペ式は立坑深度が-500mより浅い深度では賞用できない。その為、立坑深度が-350mや-250mの場合はタワーマシンかガイドR型、H型か新H型か多索式立坑を使用しなければならない。


ケーペ式
ケーペ式の簡単なイメージ図。1つのロープで経由する釣瓶式である。

浅い深度でのケーペ式は立坑に装備されている滑車にどれだけロープを巻き付けられるかが争点となる。その中で、後述の一本索のR型やA型では浅い深度の開発では不可能があり、それらを実現する為に初期ではタワーマシンが出現した。ただタワーマシンは大型でコストがかかることからR型を改造したガイドR型が誕生し、その後はH型や新H型、日立PIC型櫓などが生まれていった。


旧二坑斜坑巻上機 500kw
ドラム式の例。(写真は羽幌炭鉱旧二坑斜坑巻上機)

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ケーペ式の例。(写真は住友赤平第一立坑)




これらを見分ける方式として、巻上機にロープを蓄えるものがドラム巻。ロープがただ通っているだけのものがケーペ式と見て良いだろう。国内の炭鉱ではこの2つの巻上方式が多用されたが、戦後からは専らケーペ式が多く採用されることが多かった。ちなみに、動力滑車を「ドラム」または「ケーペプーリー」。無動力滑車を「ヘッドシーブ」または「ガイドシーブ(ガイドR型補助滑車とタワーマシンの場合のみに用いられる)」と呼ぶ。


R型2
ケーペ式R型櫓を例にすると以上の図の通りである。



それでは簡単なグランドマシンとタワーマシンの例を挙げていきたい。


・グランドマシンの例

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住友赤平第一立坑

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北炭空知竪坑

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三菱美唄竪坑(上風坑・下風坑)

この他、住友奔別中央立坑・住友赤平上歌排気竪坑・北炭幌内立坑・布引第一/第二竪坑・三井田川伊田八尺竪坑・貝島菅牟田坑北/中央竪坑などがグランドマシンに分類される。


・タワーマシンの例

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羽幌本坑運搬立坑

龍鳳炭鉱
満州国撫順炭礦 龍鳳東竪坑

この他、国鉄志免竪坑・三井四山第一竪坑などがタワーマシンであった。


日本国内ではタワーマシンが使用される例は稀で、多くの場合がグランドマシンが採用され。タワーマシンは余程な理由が存在しない限りは使用されなかった。ちなみにタワーマシンをワインディングタワーと称する人が居るが、これは間違いであり。タワーマシンの正式名称が「ワインディングタワーマシン」であるものの、当時(1950年代以前)の業界紙が表記として「ワインディングタワー」にするか「タワーマシン」にするかで二分されていた頃に地上設置型という意味を持つ「ワインディング」を排した事により「タワーマシン」として統一されることになった。その為、昔の資料にはワインディングタワーとしていた業界紙が時折目に入る他。当時の技師の中にも頑なにワインディングタワーという表記を好む人も居た。しかし、正式にはタワーマシンである。


以上を元に簡単な立坑櫓の分類をしたい。


・R型櫓

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三菱美唄竪坑(下風坑・上風坑)

R型
大まかなR型櫓の図

R型櫓は立坑櫓の基本の形であり、ロープのかけ方と構造自体がRのような形をしている。日本の鉱山でも多用された形であり、派生型も数多く存在する。雪害などによるロープの凍結を防止する為に着脱可能な部材で覆われた「シールドR型」。ケーペ式による浅い深度の(-500mより浅い)立坑に使用する為に滑車(シーブ)を一つ余計に組み込んだ「ガイドR型」。シールドR型とガイドR型の混合種である「シールドガイドR型」。コンクリートなどの着脱不可能な部材で覆われた「閉鎖R型」。木造や初期鉄骨R型櫓に見られる台形櫓構造を有する「テントR型」。支持櫓が発達したR型櫓の進化版「新R型」などが存在する。

シールドR型の例は三井砂川未成第一竪坑櫓。(写真は撮影者意向により公開不可)

ガイドR型の例は三井鉱山山野砿業所の第一竪坑。
三井山野見学 - コピー
山野第一竪坑
三井山野見学
巻上機。ケーペプーリーの横にガイドシーブが確認できる。

シールドガイドR型の例は三井砂川第一竪坑・三井芦別北部(旧第一)竪坑。
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三井砂川第一竪坑。覆われた櫓とガイドシーブが確認できる。

閉鎖R型の例は貝島大ノ浦炭砿 新菅牟田坑 北・中央竪坑。
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設計図を撮影。構造はR型と同一であるが、コンクリートによって覆われている。

スクリーンショット (418)
外見(建設中)


新R型

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試験立坑の写真

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大まかな図


以上がR型の簡単な派生である。掲載している他にも幾つかの派生型が存在するが、割愛させて頂く。




・A型櫓

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北炭幌内炭鉱立坑櫓

A型
大まかな図面

A型櫓はR型を複合した形であり、A字型に櫓が形成されているのが分かる。A型櫓が使用された炭鉱は北炭幌内の他、三井三池炭鉱の有明立坑など。立坑の穴を掘る為だけに使用する仮櫓では三菱高島炭鉱の二子立坑・北炭夕張炭鉱の平和第三立坑などが仮櫓でのA型櫓使用になった。




・H型櫓

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住友奔別炭鉱 中央立坑

H型
大まかなH型櫓の図

H型櫓には開放H型と閉鎖H型が存在し、開放H型が住友奔別中央立坑・住友赤平第一立坑・三井砂川中央立坑・三井芦別総合立坑・雄別茂尻立坑・三菱高島二子立坑・三井山野第二立坑・三井松島池島第一立坑などがそれに該当する。閉鎖H型が使用された炭鉱は確認できるもので1つ存在するが、その櫓は改良H型櫓であることから閉鎖改良H型と認識している。
H型はヘッドシーブとケーペプーリーにロープが接触する角度が他の櫓と比べても大きい為に運搬能力が向上し、深度1000m以下の立坑でも運搬が容易な形となっている。




・新H型櫓 (別名:特殊垂直H型櫓)

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北炭空知竪坑

スクリーンショット (312)
ヘッドシーブの写真

新H型は前述のH型櫓をコンパクトかつ廉価にしたもので、運搬能力はH型櫓と同等程度あったと言われている。新H型にも開放新H型と閉鎖新H型が存在し、開放新H型が常磐炭鉱の泉田第二立坑・西部立坑(現いわき市石炭博物館ほるる展示中)などがそれにあたり。閉鎖新H型が北炭空知竪坑・北炭真谷地立坑などである。
特徴としてはヘッドシーブがV型に変形し、ケーペプーリーがヘッドシーブの直下に存在することである。



以上がグランドマシンの分類である。次にタワーマシンについて述べたい。



・タワーマシン

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羽幌本坑運搬立坑

スクリーンショット (327)
大まかな図

タワーマシン、別名を「塔上ケーペ式(とうじょうけーぺしき)」「塔櫓捲式(とうやぐらまきしき)」とも称されるものであるが、前記のグランドマシンとは異なり巻上(動力)機が櫓の内部、立坑の穴の直上に存在するのが特徴である。日本国内でタワーマシンがあまり使用されなかった理由は幾つか存在し、まず地震大国でありながら塔の頂上に重量物であるケーペプーリーを設置することが安全面で問題になったこと。巻上機の交換に大規模な作業を必要とすること。地盤が強固なものでなければ建設が難しいことなどが挙げられる。国内の炭鉱で使用されたタワーマシンは三井四山第一竪坑・国鉄志免竪坑・三菱美唄第三立坑・中興福島新第一立坑・大正鉱業新中鶴立坑・羽幌本坑運搬立坑などである。



以上が運搬立坑の大まかな分類である。要するに運搬立坑にはタワーマシンとグランドマシンが存在し、タワーマシンは一つのみ。グランドマシンにはR型・A型・H型・新H型の其々が存在すると考えて頂ければ幸いである。裏を返せば、タワーマシン以外は全てグランドマシンであり。また外見が覆われているが故にタワーマシンであるというのは間違いであることがお分かりいただけるだろう。
次に運搬するエレベーターの箱について述べたい。炭鉱や鉱山で使用するエレベーターの箱には人員・炭車・機材類を運搬できる「ケージ」。予め地下で石炭を集積し、それらを箱に流し込み石炭のみを輸送する「スキップ」。またはその両方を兼ね備えた「スキップケージ」が存在する。


・ケージ
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住友赤平第一立坑の4段ケージ

ケージは人員運搬と炭車運搬が主であり、機材運搬は小型のものしか運ぶことが不可能な為に大型機材は専ら斜坑からの搬入、搬出となった。ケージは1段デッキから4段デッキまで存在し、1段ケージの場合は炭車2両を並列で。2段ケージの場合は1段1車×2両としていた場合が多く。住友奔別中央立坑や住友赤平第一立坑は4段×1両の4両で運搬を行っていた。また、炭車運搬が行われる立坑では地上と地下に炭車操車線を設置する必要があり、例え4段のケージを搭載していても炭車を降ろすことができる操車線が1つしか存在しないことから1両ずつ降ろすために上下させる。これをデッキチェンジという。

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写真は住友赤平第一立坑のデッキチェンジについて述べられたもの。3回のデッキチェンジを行う。

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住友赤平第一立坑のヤード(操作場)

このように例え4段デッキであっても、線路が敷かれた操作場は1面しか存在しない。その為にケージを3回上げ下げを行わなければならない。その為に石炭を運ぶのであれば後述のスキップによるものが能率としては1.3~1.5倍高い。



・スキップ

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新菅牟田坑より

スキップは前述の通り、石炭を地下に集めてからシューターでエレベーターの箱に流し込むシステムである。坑口(地上)には専用のシューターが設置され、選炭場までベルトコンベヤーで運ばれるようにしている炭鉱や鉱山が多かった。スキップは流し込む際に石炭や鉱石の破砕が発生する為に、塊を重視する炭鉱では賞用されなかった。



・スキップケージ

スクリーンショット (311)
写真は北炭真谷地炭鉱 桂第二立坑に納入されたもの

スキップケージはスキップとケージがハーフで搭載されたもの。炭車による運搬は行わず、石炭はスキップのみ運搬とし。ケージ部分は人員と機材搬入用として使用される事が多かった。



以上がエレベーターの箱にあたる、運搬設備についてである。炭鉱業界では晩年に至るまで「ケージ」か「スキップ」かの議論が交わされ、今日まで結論は出されていない。しかし、それぞれ炭鉱の石炭の質によって結論が待たれる事から、スキップが良いかケージが良いか、スキップケージが良いかは各炭鉱の技術者たちの裁量に任され、頭を悩まされたという。





そして最後に多索式について述べたい。
多索式(たさくしき)とは立坑の運搬設備、ケーペ式で問題になるロープの本数である。運搬設備と運搬設備を繋ぐロープはメインロープと呼び、その本数を調節することが可能である。その為、国内では基本敵に「一本索(いっぽんさく)」が使用されたが、一部の立坑櫓では「二本索(にほんさく)」が採用された場所がある。二本索が導入された立坑櫓は住友奔別中央立坑・住友赤平第一立坑・三井砂川中央立坑・三井芦別総合立坑・雄別茂尻立坑・三菱高島二子立坑などが該当し、タワーマシンでは中興福島新第一立坑以降に建設された羽幌本坑運搬立坑などのタワーマシンで主に採用された。

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羽幌本坑運搬立坑のケーペプーリー(二本索)。メインロープ用の溝が2つあるのが分かる。

茂尻立坑 ヘッドシーブ
雄別茂尻立坑のヘッドシーブ(二本索)

このように多索式の場合はメインロープの本数に応じてヘッドシーブが2基ないし数基が並列に搭載されている。住友奔別中央立坑を下から眺めた際にもヘッドシーブが横並びで2基搭載されているのが分かることから一本索と二本索(多索式)の区別は容易に判断できる。多索式が導入された初の立坑が住友奔別中央立坑であり、奔別は将来的に地下-1000m以下まで立坑を降ろすことが目的とされていた為に建設段階より多索式を導入して運搬物の重量に耐えられるように設計された。




以上が立坑櫓の分類に関する基本知識である。立坑櫓は炭鉱の深度、通気状態、石炭の質、運搬人員数、将来の坑道骨格など様々な情報が加味され造られる巨大エレベーターである。炭鉱や鉱山一つとて全てが同じ立坑櫓は存在せず、また設計や建設に際して様々な図面が書き下ろされた。そして何よりも自分のヤマに造られる立坑をどのようにするか勉強する為に各炭鉱や鉱山の職員の中に必ず一人は「山元側の設計者」が存在したはずなのである。時には国内の立坑櫓を見てまわり勉強し、時には外国の立坑櫓を勉強し、各電機会社と綿密な打ち合わせをして計画や機材の適性を議論した者が居るのである。中には立坑櫓すら知らずにいきなり工作・開発課へ回ったもの。自分の双肩に炭鉱数千人の生活がかかっていると寝る間も惜しんで勉強した者。各電機会社から渡された立坑櫓の仕様書を眺めて無理な計画を見抜き、設計図を突き返した者。調べれば調べる程に炭鉱と人々の暮らしを守る為に奮闘した設計者たちの苦悩が見て取れる。
「立坑櫓を見れば、炭鉱が分かる。」 ある場所で取材中に出会った元施設課職員の爺さんはそう言った。間違いなく事実であり、立坑櫓のシステムやメンテナンス、機材を見れば本当に炭鉱がよく分かる。日本に残された立坑櫓は半数、いや1/10以下になってしまった。取り壊し予定の立坑櫓、保存が決まった立坑櫓。絶賛議論中の立坑櫓。その境遇はそれぞれだろうと思う。しかし、炭鉱や鉱山の深部化に際し、このままでは閉山すると焦り奔走した技術者たちの汗と涙の結晶とも呼べる立坑櫓を易々と解体して良いものだろうか。今一度私たちは立ち止まり、その櫓の持つ意味を再認識することが求められている。そんな時代に私たちは生きている。
私の耳にも日々、不安を掻き立てる噂が流れてくる。中でも北海道三笠市に存在する旧住友石炭砿業の奔別中央立坑の解体だけは待ってほしい。あの立坑こそ、炭鉱業界の深部化に対抗した日本初の複式H型、二本索ケーペ式、スキップとケージの4列複式設備という新時代を築き上げたモデルプラントなのだから。

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重要文化財 志免竪坑櫓を思う。  


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国鉄志免竪坑櫓といえば、重要文化財にも指定されている竪坑櫓である。

国鉄志免竪坑の建設に関しての経緯を探る
(私が記していた旧ブログ)

上記URLは私が元より執筆していたブログであるが、大まかなものはこちらから確認して頂きたい。今回はこれら文中で使用されたエピソードを再編し、より分かり易くしたものである。
まず、国鉄志免竪坑櫓がなぜここまで注目されるのか。それは国内に現存する竪坑櫓では珍しい「タワーマシン」の構造である事に起因する。タワーマシンとは巻上機(動力滑車)が塔の内部、立坑穴の直上に設置されたもので別名「塔上ケーペ式」や「塔櫓捲式」とも呼ばれる。当時の業界紙ではタワーマシンとして紹介され、塔櫓捲式という名称はあまり使用される事は無い。これら竪坑櫓のシステムの違いについて纏めた記事もあるので、分からない方はそちらを参考にして頂ければ幸いである。

立坑櫓の分類について
上記記事にタワーマシンとは何かについて詳らかに掲載してある。

さて、この国鉄志免竪坑櫓の設計者は当時の志免砿業所の工事部に在籍していた大石氏によるものであり。製図は宮原氏が担当した竪坑櫓である。どういう訳か、竪坑櫓の設計者の話になると志免砿業所の坑長である猪股 昇(いのまたのぼる)の名前が出てくるが、猪股氏はあくまでも総論として鉱業会誌発表用の原稿を書きあげたというだけであり。逆に大石氏の志免竪坑櫓建設計画に無理難題を求めていた人物であるという事は念頭に置いて頂きたい。
まず、大まかな歴史から述べることにする。国鉄志免竪坑櫓は第二次世界大戦による石炭増産が叫ばれた前後に海軍省の志免砿業所の深部化に際しての打開策として立案された竪坑櫓である。この頃、日本国内の竪坑櫓はR型櫓が基本であり、志免竪坑完成前に建設された大規模竪坑としては三菱勝田竪坑などが有名である。三菱勝田竪坑は1550㏋の大容量イルグナ式巻上機を搭載し、国内巻上機としては三井四山第一竪坑の巻上機を上回る規模のものであった。また三菱勝田竪坑は東条英機首相が戦時中に訪問し、ケージに乗車して地下まで降り切羽まで激励に行ったという歴史を持つ竪坑である。
そのような状況下に於いては志免竪坑も当時の海軍省として不格好な物を導入する訳にはいかない。ただ、志免砿業所の用地は非常に狭隘で、丘の上に砿業所が立ち並んでいた。


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1956年の志免砿業所航空写真。

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赤丸が志免竪坑櫓である。

一見、用地が無いようには見えないが前述の通りに小高い丘の上に建てられた砿業所であることから、選炭場もその付近であり。竪坑と既存の選炭場を離れた場所に設置すると運搬などのコストや諸問題が発生する為に避けられる傾向にあった。また、グランドマシンと呼ばれる巻上機を地上に設置するタイプの竪坑櫓は基礎整備や付帯設備建設のランニングコストがかかる為に、安くて早くて安心などこかの水道屋さんのキャッチフレーズのように手軽なタワーマシンが選択された訳である。

運輸省志免砿業所下層炭開発計画に就いて
(J-Stage 日本鉱業会誌論文 志免竪坑については5ページ辺りから話が始まる。)

そこで考えられたのが、タワーマシンはタワーマシンでも当時の東洋一として名を馳せた『満州国 撫順炭礦の龍鳳東竪坑櫓』の国産版を本土にも建設するという大計画であった。

龍鳳炭鉱
龍鳳東竪坑櫓

この竪坑は機材の一切をドイツから輸入し、中国(当時の日本占領下の満州)に建設された東洋一とも称されるタワーマシン型の竪坑櫓である。当時の海軍省は龍鳳東竪坑櫓をベースに純国産の機械や技術で同じものを福岡県の志免砿業所に製作することを目的とした計画を立案し、技術陣の形成を図っていった。ここで満州国から設計者として招喚されたのが後の志免砿業所の副坑長に就任した大石氏である。大石氏は龍鳳東竪坑櫓の建設の際に現場で建設指揮を執っていた男で、志免竪坑櫓の建設に於いても尽力してくれるだろうと当時の海軍省からも信任を得て志免砿業所まで赴任してきた。赴任当時は志免砿業所工事部設計課に在籍し、その際に龍鳳東竪坑櫓の図面をコピーして国内へ持ってきた。
大石氏はまず龍鳳東竪坑櫓のメリットとデメリットについて纏めた。抑々、龍鳳東竪坑櫓がタワーマシンを採用した理由は非常に簡単で、「夜間の急激な気温変化による竪坑設備の凍結を防止する為、竪坑櫓の側を覆うことが可能なタワーマシンにした。」これだけの話である。つまり、土地も十分に存在した上に竪坑深度も地下-770mまで延びている龍鳳東竪坑にタワーマシンはオーバースペックだったと言わざるを得ない形である。志免砿業所の場合は竪坑深度が地下-430mだったことからケーペ式が賞用できる-500mに今一歩届かない深度であった事から安全性を考慮した結果でタワーマシンの採用に踏み切った一面もある。
以下、龍鳳東竪坑櫓のメリットとデメリットである。

・メリット
竪坑櫓が覆われている為に竪坑櫓内の寒暖差が緩く、夜間凍結によるメインロープのスリップを発生させない。
風雨から守られる為、竪坑設備の劣化が遅い。
 
・デメリット
櫓が覆われている為に入気立坑としての空気流動量は落ちる。
入気立坑として地下に入る空気量が少ない為に、ケージが上下すると地下からの炭塵逆風が発生する。
複式として設計したにも関わらず、当初は片方のケーペプーリーとガイドシーブしか納入されず。更新工事に竪坑を操業停止した上に大規模な工事を必要とした。


以上が龍鳳東竪坑の簡単なメリットとデメリットである。
大石氏は龍鳳東竪坑の建設から稼働に至るまで問題を眺めてきた男である。それらを本邦の志免砿業所の設計に生かすにはどうしたら良いものか考えた訳である。まずはタワーマシンにするとしても材質の問題が発生する。そこで大石氏は鉄骨タワーマシン構造である龍鳳東竪坑の「ケーペプーリー稼働による櫓の横揺れ」の脆弱性を考えた。これは鉄骨櫓特有の問題で、塔の上部に重量物が搭載されている場合、どうしても振動の分散が問題になる。特に龍鳳東竪坑は側が覆われた竪坑櫓であった為に、軋みによる問題は多々存在したという事であった。また鉄を多く必要とする戦時中において、竪坑一つに多くの鉄は確保できない。鉄削減とそれらを防止する為に鉄骨櫓での設計を見直し、鉄筋コンクリートによる構造に変更するとした意図を坑長である猪股昇に伝え受理された。これにより志免竪坑は鉄筋コンクリート造りのタワーマシンでの設計とすることが決定した訳である。この際に大石氏は同じ九州に存在したタワーマシンである三井四山第一竪坑櫓を視察に行っている。

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三井四山第一竪坑櫓のタワーマシン。

このタワーマシンは某外国のタワーマシンの図面を改良し、国産型タワーマシンとして大正時代に製作したものである。比較的近年まで残されていたが、この竪坑櫓の解体は非常に惜しいものであった。巻上機は東京芝浦電気製で、この巻上機の完成を機に同社では鉱山用竪坑機械の生産を多く手掛けるようになった。
大石氏が設計を進める上で、もう一つ問題となったのが竪坑内に何列の運搬設備を設置するかという事であった。通常の運搬設備であれば単式が2列、複式が4列である。

スクリーンショット (318)
単式設備の立坑断面。四角の枠がケージやスキップなどの運搬設備である。

スクリーンショット (411)
複式設備の立坑断面。4列ある事が見て取れる。

このように単式設備というのは運搬設備が2つの立坑櫓、複式設備というのは運搬設備が4つの立坑櫓を示す。龍鳳東竪坑は最初は2列での製作とし、必要であれば4列にすることも可能とした造りだったのである。これらは龍鳳東竪坑の論文の末尾の方で触れられているので各自で確認して頂きたい。

撫順炭礦龍鳳大竪坑計画書
(J-Stage 日本鉱業会誌No.596 論文)

つまり、龍鳳東竪坑櫓は大石氏が在籍していた頃には「未完成」であり。本当の完成は複式設備になってからであった。これら諸問題を熟考した大石氏は志免竪坑では土地が狭隘でケージ4列を敷く用地は存在しないとして、単式設備での建設を念頭に話を進めていた。
次の問題は前述のデメリットに記載したケージが上下する事による炭塵逆風の防止である。炭塵逆風はどの竪坑櫓でも存在した問題であり、排気設備が整った竪坑であれば空気は竪坑入口から地下に向かって強制的に吸い込まれるが、この時代の排気設備はシロッコファンや大型扇風機などによる弱小設備に留まっていた上に龍鳳東竪坑は側が蓋をされているような竪坑櫓である。入気量が低いことは火を見るよりも明らかなことである。その為に龍鳳東竪坑では炭塵逆風が発生した他、櫓が覆われている事によって炭塵が塔内に滞留して蓄積したことも相まって落雷などの災害時には竪坑ごと吹き飛ばす巨大地雷へと変貌していたのである。俗に言う炭塵爆発による問題が龍鳳東竪坑では浮き彫りになっていた。これらを志免竪坑で発生させた場合、海軍の威信も増産もあったものでは無い。大石氏はこれらを回避する為に猪股坑長を説得にかかり、外国で実際に存在した竪坑の炭塵爆発の例を元に説明を行って志免竪坑の設計を下部吹き抜けの自然入気式とした他に炭塵滞留を防止する構造へと設計を変更したのである。

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志免竪坑の脚部がこのような構造になっているのは上記による問題を回避する為である。


ここまで順調な運びを見せた志免竪坑であったが、櫓の建設も順調に進まった辺りで猪股坑長から改良についての提言を受けた。それが複式設備に改造できるような設計にしておけという旨だった。複式設備にするという事は、同じ塔の中にケーペプーリーとガイドシーブが2つずつ計4基を設置することであり。志免竪坑の設計に大きな変化を齎す事になる。

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私物の志免竪坑における塔上の図面。

つまりは、このケーペプーリーとガイドシーブを横に将来的にはもう1つずつ設置して複式設備できるようにしろという提言だったわけである。これは龍鳳東竪坑の改造時にも問題となったが、複式設備にすることによって竪坑のガイドの調整や付帯設備の工事がより大規模になる。そして何より、この時点で志免竪坑は櫓の中間部分まで建設されており今からの設計変更には不可能を来すことになる。ここで大石氏は猪股坑長と議論を重ね今から計画を変える事は不可能であると抗議をしたが、「海軍が建設する志免の竪坑櫓が他の櫓に見劣りするようでは許されない。」と猪股坑長は主張し。竪坑櫓を建設途中から設計変更する事を余儀なくされた訳である。
無理難題を押し付けられた大石氏は志免砿業所を眺め、操作場が狭隘な場所であることから将来の増設工事に於いてもケージによる操作場を有した計画が実行されることは無いだろうと感じ、スキップによる第二期工事なら行えるかもしれない。そう考えた訳である。そこで大石氏は同じ九州の住友忠隈炭鉱に足を運び1坑スキップ斜坑を眺めてシステムを再認識し、志免竪坑の第二期工事における複式設備化の際までには巻上機の小型化が実現できるだろうとしてスキップ巻による設計とした事で猪股坑長の認可をもらう事ができた。その為、志免竪坑の塔上巻室の未成部分は空間がやや狭くとられているのである。ただ、本来であればスキップ巻はケージ巻よりも重くなる傾向がある事から小型化は避けられる傾向にあったはずである。これら計画が実行されることなく志免砿業所は閉山してしまった為に、将来の複式工事がどう挙行される予定だったのかは一切分からない。ただ、私のような竪坑マニアにはたまらないイベントになっていた事だろうと思われる。

こうして志免竪坑は技術者たちの尽力によって完成し、炭鉱が閉山するまでケーペプーリーは回り続けた。




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これらの資料や証言は大石氏が副坑長を務めた昭和30年の末、当砿業所を訪れた住友奔別中央立坑の設計者が残した日記に記載されていた事をそのまま書きだしたものである。立坑櫓を造るには別の竪坑櫓を見て学ぶ必要がある。このように北海道と九州という遠く離れた場所で、技術者たちが手を取り合い設計についての彼是を語り明かしたエピソードは実に熱いものである。
私が持っている志免竪坑の設計図は住友奔別中央立坑櫓と志免竪坑櫓の2人の設計者が所々にメモを残しながら語り合った時のものである。残念ながら、この時の奔別中央立坑櫓の設計者の日記はその親族によって処分されてしまったが、立坑櫓建設の歴史が動いた1ページの証人として私は語り継ぎたいものである。九州の志免竪坑櫓と北海道の住友奔別中央立坑櫓は形こそ違えど、熱き設計者たちが言葉を交わし石炭産業の深部化を解決する為に設計者の意思というバトンを受け継いだ新時代の嚆矢とも言える立坑櫓なのである。

北炭幾春別炭鉱 緑坑の斜坑群について part2  


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意外と知られていない炭鉱、北炭幾春別炭鉱。そもそも、この幾春別炭鉱が北炭という夕張を代表する大企業が採炭を行っていたという事も案外知られていなかったりするが、錦竪坑の存在がやはり大きいのだろう。

ここで周辺の状況を確認しておきたい。

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1966年の幾春別の航空写真である。

北炭幾春別炭鉱の閉山から約10年が経過し、周囲の状況は大きく変化している。

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当時の施設を組合せるとこのような感じになる。

青線は北炭幾春別炭鉱の専用軌道があったんじゃないかなーと私なりに考えた経路図である。選炭場から出発した専用軌道は橋梁を2ヶ所渡り、幾春別川の対岸へと渡る。そして錦竪坑の通洞を直前にして分岐が始まり、直進すると錦竪坑。右折すると青葉坑や緑坑の斜坑群へと続く築堤が現れ、その嚆矢として幾春別森林鉄道と立体交差を行っていたのではないかと私は推測する。

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航空写真の黄色い〇の辺りにある幾春別森林鉄道の立体交差部分。恐らく専用軌道はこの下を潜って緑坑や青葉坑へと続いていたに違いない。


ちなみに、鉱区図を当て嵌めるとこのような感じになる。

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各坑の鉱区図はこんな感じかなぁと。緑坑が末端に存在し、錦坑と緑坑の間に青葉坑が存在すると言った形になっていたはずなので、大まかにはこれであっているんだろうと思う。

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先ほど発見した緑坑の斜坑2本はこのように存在していることから、残りの緑新斜坑と青葉本卸斜坑と副卸斜坑は?部分のどこかに存在することになる。年代として分けるならば、青葉坑の斜坑は戦前から存在するものであることからして煉瓦造りの斜坑(とは言え緑斜坑で幻想が打ち砕かれた)可能性が高いと見て良いだろう。緑新斜坑は幾春別炭鉱の晩年に造られたものである事からコンクリート造りの斜坑でほぼ確定である。



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緑斜坑から順当に歩いて行くと擁壁が現れた。

この擁壁は遠くから見ると一部が山側に向かって反れるように形成されており、この擁壁は事実上の分岐を意味するものであると私は考えた。また、謎のアンダーパスも存在し、ここより山側に「何かがある」と確信を得た訳であるが・・・。




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熊笹が酷すぎる

熊笹を掻き分け、着雪に湿るズボンと上着に不快感を得ながらも取りあえず進む。





・・・ん?待て? 熊笹の奥に何か見えないか!?





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よっしゃああああああああああ!!!

あった!あったぞ!!!

何の斜坑か分からないけど、何かあった!!!




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コンクリートの坑口を有しているが、その先で斜坑は潰されたのか自然崩壊なのかは分からないが消滅している。ただ、ラッパ状の坑口は紛れもなく当時の斜坑で見られる様式に違いない。付近は湧水によって水没し、長靴でもそれなりに丈のある物でなければ浸水するぐらいの深度である。
そういえば、浸水と言えば先ほどの擁壁の先にも謎の池が存在した。



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この池の直前までがコンクリートによって擁壁と築堤で形成されている。

まさか、この池の下に・・・。斜坑があるのか???いや、あるんだろうなぁ・・・。




この後も付近を歩い程度捜索したが、斜坑は錦坑の1号坑道と連絡通洞2本程度しか発見することが出来なかった。今回のラッパ状の坑口の発見こそ、個人的に一番大きな収穫となったことは間違いない。ただ、この斜坑と水没した斜坑が一体何の斜坑なのかが分からない。
家に帰り、北炭幾春別炭鉱についての文献を再び漁った。鉱区図こそないものの、採炭法と通気や排水系統を探していたところある文章が出てきた。以下、北炭幾春別炭鉱についての紹介文である。

『排水法。水準以下の湧水は全部坑道下の下水にて流出せしめ、水準以下なる緑坑は錦坑に落下せしめ、錦竪坑によりタービンにより排出す。青葉坑に於いては個別に排水タービンを設置し排水を行う。』

以上の事から2つのことが分かる。

・排水系統では緑坑は錦坑の坑底に流し込み、竪坑により排水。つまりは緑坑と錦坑は連絡坑道で繋がっており、青葉坑とは排水系統が別である。
・青葉坑は排水系統が単独であり、個別で排水を行っていた。


ここで今現在の錦通洞を思い出して頂きたい。

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硫黄分を含んだ湧水が流れ出す錦通洞。つまり、この水は錦坑だけでなく緑坑からの湧水が含まれているという事であり、青葉坑の排水は青葉坑単体で行っているという事である。


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湧水で溢れる斜坑2本。

もうお気づきだろうか。この斜坑は北炭幾春別炭鉱の青葉坑の本卸と副卸なのである。独自の排水系統によって形成され、地下で連絡坑道が造られなかった青葉坑は閉山後の排水について考慮されていなかったことにより湧水が今でも湧き出してくる斜坑となっていたのである。恐らく坑口が現存するものが本卸斜坑、水没したものが副卸斜坑で違いない。
副卸斜坑は専用軌道にほぼ直通できる形で位置しているのに対し、本卸斜坑は一度スイッチバックを行って入坑するようにされていたようである。ちなみに、青葉坑の排気システムには直径四尺のチャンピオンと四尺六寸のシロッコファンによって排気がなされていたらしいので、実際はこの他にも少なくとも1つは斜坑があると見て間違いないだろう。副卸か本卸かが排気斜坑になっていたとしても、2台を同じ場所に設置するとは考えられないからである。

こうしてあまりにも適当すぎる調査が終わったが、その中でも緑新斜坑という北炭幾春別炭鉱の晩年に新設された斜坑を発見できなかったのが何とも悔しい。今はもう雪に埋もれている頃だと思うが、何かの機会があれば是非とも再調査に踏み切りたい所存である。



北炭幾春別炭鉱 緑斜坑群について  


北炭幾春別炭鉱と言えば、言わずと知れた古参炭砿である。起源は明治13年の開拓使官僚の島田純一と山際永吾が石炭露頭を捜索中に発見し、翌年にアメリカ人礦業知識人ポッターが巡検したことに始まる。本格的な開発は明治18年から始まるも度重なる中止と鉱区明け渡しと買収を重ね、明治22年に北海道炭礦汽船の幾春別礦業所として再編された。炭鉱の閉山は昭和32年。坑命は71年と長かったが、将来の幾春別下層鉱区開発を視野に入れていた北炭は閉山後の幾春別炭鉱鉱区を手放すこと無く北炭幌内炭鉱の閉山まで保有していたと言われている。
まず、この炭鉱で一番有名なものと言えば北海道最古と言われている錦竪坑櫓である。

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北炭錦竪坑櫓。シールドガイドR型でガイドシーブや巻室などが残されているものの、左上にある北炭マークは三笠市立博物館がオリジナルを回収してレプリカを作り直したもの。

この竪坑は地上ではなく、地下に操作場を有していた為に竪坑の真下に通洞トンネルも存在する。

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錦竪坑通洞。横にあるコンクリートの残骸は幾春別森林鉄道の橋脚跡。

このように竪坑への乗降が地上ではなく半地下の竪坑は錦竪坑の他にも三井砂川第一竪坑などが似た構造を有している。また、三菱美唄第三立坑も同様の方式である。




今回、北炭幾春別炭鉱に焦点を当てたのは調査仲間のはっしー氏が疑問を投げかけてきたからである。現在、幾春別炭鉱選炭場跡地は三笠市立博物館に。幾春別森林鉄道跡地はサイクリングロードとして活用されているが、その中でも気になる区画があると話題になった。


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幾春別森林鉄道の橋梁跡。

ここで、はっしー氏から一言。「沢も川も無い場所で橋梁をかける必要って何だと思う?」私はそういわれてみてばそうだと目を覚ました。確かにそうだ、こんな場所に橋を設けるなんて『まるで何かを避けるために渡っているようでは無いか』。3時間に及んだ電話のち、私は手元にある北炭幾春別炭鉱について記された資料を片っ端からひっくり返し調査を行ったがこれと言った資料を発見するには至らず。その代わりに周辺に斜坑が通洞含め10本以上も存在するという事が判明した。
今現在、周辺でPRされている斜坑、通洞は錦竪坑の煉瓦積み通洞のみ。その他に10本近くも存在するなど、到底考えられる訳も無かったので1960年代の航空写真を参考にしてみたがこれと言った手掛かりは見つからなかった。ただ、森林鉄道とは別に北炭幾春別炭鉱専用軌道線(小型軌道)が少なくとも2線が敷かれている事が判明した。以上を纏めると以下のようになる。

北炭幾春別炭鉱

・錦坑
 錦竪坑
 錦通洞
 錦斜坑(1~4号斜坑)

・青葉坑
 本卸(人員・石炭?)
 副卸(石炭・ズリ・材料)

・緑坑
 本卸(人員・石炭)
 風井斜坑(石炭・ズリ・材料)

・緑新斜坑
 よく分からん、不明。斜坑2本あったっぽい?


が原生林に還りつつ幾春別の山奥の中にあるらしく、ただでさえ状態も何も分からない幾春別の山の中で決死の調査が行われる事となった。調査日は11/7。初雪間もなくの調査となった。






当日。

留萌から車で2時間余り。漸く三笠市の幾春別町に到着した私は長靴、防寒対策に身を包み国土地理院の1960年頃の白黒航空写真を再確認した。この周辺では電波も届かない可能性がある為に、なるべく事前の地図と遭難時の対策は行ってる。まずは緑斜坑の捜索から始める。
緑斜坑は斜坑2本を有し、石炭の出炭量は1940年頃の資料によると日産150tほど。日産150tと言う事は年産に直すと年間採炭日を330日としても49500t程度。つまりは年産5万tといった非常に非力な感じのする斜坑である。北炭幾春別炭鉱の中では珍しく本卸に複胴電気巻上機100㏋を有し、風井斜坑には小型のワルハム式複胴蒸気式巻上機50㏋が設置されていたらしい。どちらにせよ、非力である・・・。
幾春別山手町の一角に車を止め、道なき道ともいえる山の中を歩くこと2分。あまりにも唐突にその瞬間はやって来た。


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お前なんでこんなに早くでてくるんや!!!



もっとこう、苦労してから出てきてほしかったものだが、出てきてしまったものは仕方ない。この斜坑こそが北炭幾春別炭鉱の緑坑の風井斜坑である。斜坑本体はどういう訳かコンクリートの巻きでガチガチに固められており、あまり時代を感じさせないスタイルを有しているせいでなんか発見欲が満たされない。






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内部はコンクリートでは無いが土砂によって埋め戻されていた。ちょっと乱暴な感じがしなくもないが、1960年以前の閉山に対する処置はこれくらいで良かったのだろうと我ながらに思ってしまう。どこかの立坑跡地のように蓋もせずに放置している場所がある事を考えれば、これくらいはまだまだ緩い。



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本卸入口

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爆風洞出口
周辺にはもちろん本卸もあった。本卸にはガス爆発を想定した爆風洞(これ本当に爆風洞として使えるのか?)があり、ガス爆発などの災害に対して巻上機などを守ろうとする感じが見て取れる。


DSCF2956.jpg
内部から見た本卸出口付近。

北炭幾春別炭鉱の緑坑跡地は林道の先にある事からアクセスは容易であるが、インターネットで検索をかけても該当するものが皆無な事からまだ存在を知らない人の方が多そうな斜坑である。そしてこの斜坑の先に幾春別炭鉱専用軌道っぽい跡が続いている事から私はある仮説を思い浮かんだ。





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この幾春別森林鉄道は幾春別炭鉱専用軌道と立体交差を行い、その専用軌道がズリ山を回避してこの場所まで延長されていたのではないかと。つまりは、北炭幾春別炭鉱の末端である緑坑から錦坑に向かって進んでいけば青葉坑と緑新斜坑の遺構も発見できるという一石二鳥なものじゃないかと考えたのである。







次回、北炭幾春別炭鉱編 part2へ。


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